岩村さん陳述書

2020年2月19日(第8回口頭弁論期日提出)

岩村匡斗

  • はじめに….
  • 第1 私の経歴….
  • 1 スイスへの留学….
  • (1)留学の決意….
  • (2)父の援助….
  • (3)スイスへ….
  • (4)日本国民であることの意識….
  • 2 スイスでの大学時代….
  • (1)転部….
  • (2)留学費用が尽きて….
  • (3)大学卒業後の進路….
  • 3 スイスで就職して….
  • (1)就職とBパーミット….
  • (2)死に物狂いの日々….
  • (3)続く死に物狂いの日々….
  • (4)Cパーミットの取得….
  • 第2 スイス国籍取得の必要性….
  • 1 スイス国籍取得要件の具備….
  • 2 スイス国籍取得の必要性….
  • (1)キャリアのために….
  • (2)家族のために….
  • (3)キャリアと家族、救済のためのスイス国籍….
  • 第3 日本国籍を失いたくない理由….
  • 1 日本国籍とスイス国籍の耐え難い二者択一….
  • 2 日本人として凱旋し、日本と故郷に恩返ししたい….
  • 3 家族を守りたい….
  • 4 意味・役割の違う二つの国籍….
  • 5 アンケート結果と報告書を読んで タブーとなっている国籍の話題….
  • 第4 訴訟要件について….
  • おわりに….

はじめに

 一昨年10月、法廷で意見陳述した内容は、甲82号証として提出させていただきました。ただ、限られた時間の意見陳述だったため、十分に語り尽くせなかったこと、書き尽くせなかったことがあります。

 今日は、前回の意見陳述には盛り込まなかった内容も含めて、私がこの訴訟に原告として参加するに至った経緯と、スイス国籍が必要な理由、そして、私が日本国籍を失いたくない、奪われたくない理由をお話したいと思います。前回の意見陳述と重複するところもありますが、ご了承ください。

第1 私の経歴 

 それでは、まず私がスイスに渡った理由と、スイスに渡った後、どのような経験をして現在、スイス国籍をすぐにも取得できる状態に至ったのかについて、お話します。私の体験をとおして、外国に渡ってその国の国籍を取得できる状態になることが、日本の若者誰にも可能性として起こりうるものだということを、お伝えできればと思います。そのうえで、なぜ私がスイス国籍取得を望んでいるのか、なぜスイス国籍を取得しなくてはならないのか、その理由をお話しします。 

1 スイスへの留学 

1)留学の決意

 私は日本人の両親から生まれました。神奈川県で生まれ、父の仕事の都合で、中学2年生のとき、福島県いわき市へ移りました。高校卒業後、東京の青山学院大学の法学部へ進学し、東京で一人暮らしを始めました。

 大学1年生の時、アルバイトでお金を貯め、初めての海外旅行で、ヨーロッパを放浪しました。教科書でしか見たことがなかったローマのコロッセオ、そして夜の照明に輝くパリの凱旋門の前に立ち、このようなものが本当に実在していたんだという心の底から湧き上がる強い感動は、今も忘れられません。

 スイスを初めて訪ねたのもその旅行の途中でした。当時、私の母の従弟で私と年齢の近い親戚がスイスにおり、彼を訪ねました。彼は、私の祖父の末妹の息子で、名前をGenjiといいます。「源氏物語」の光源氏に因んだ名前だそうです。彼の母親が私の母の叔母にあたります。彼の父がスイス国籍とフランス国籍を持っており、生まれたのが出生地主義の国ブラジルなので、彼はスイス、フランス、ブラジルという三つの国籍を持っています。母親から日本国籍を受け継がなかったのは、日本の国籍法が父母両系主義になる前に生まれたからだと思います。

 以下、彼のことを、この陳述書では「従兄」と、彼の母親のことを「大叔母」と表記します。家族の間では、いつもこう呼んでいるからです。

 私が従兄に初めて会ったのは中学生2年生の夏、彼が大叔母と一緒にいわきを訪ねてきてくれた時でした。私はその時初めて、自分に外国人の親戚がいることを知りました。中学校の遠足にも参加してくれ、同級生たちの目が点になっていたのを覚えています。従兄は別れ際に、「See you next!」と言って、私に握手を求めてきました。「See you」の後に「next」を続ける発想は当時の私にはなく、しかも映画の中でしか見たことのない握手を求められ、自由な発想と自由な世界を垣間見た、驚きの瞬間でした。大学1年の時のスイス訪問は、そのときの約束を果たすという意味もありました。

 スイスへの初の旅行で受けたスイスの印象は、外国なのはもちろんだが、火星や金星ではない、自分と同じ人たちが暮らしている国なんだ、というものでした。

 東京で暮らすようになるまで、私の親しい友人に外国で暮らしたことのある人はいませんでした。東京では、大学には帰国子女の同級生がいましたし、町に出ればいたるところで外国人に出逢います。私の目は自然と、日本以外の世界に向くようになっていきました。大学でのゼミで国際私法を選んだのは、国際的な取引の重要性はこれから先ますます大きくなっていくだろうと考えたのが理由でしたが、国際的な大都市である東京での日常からの影響があったのだと思います。

 大学3年になる頃までに、大学卒業後の進路をどうするか、考えはじめていました。クラスメート、友人たちが就職活動をしているのを横目でみながら、自分が果たして適正な評価で企業に雇い入れてもらえるのか、疑問でした。また3年ほどで退職・転職したり解雇されたりする先輩の話やテレビや記事を読んで、ますます日本での就職に疑問を抱いていました。つまるところ自分の能力や大学時代に習得した技量に自信がなかったからだと思います。

 そこで、スイスに留学して自分の価値を高め、自分が評価され雇用側から誘っていただけるような人間になってから就職したいと考えるようになりました。

 スイスを選んだのは、国際私法の研究が最も進んでいた国だったからです。同じ分野の先進国としてはアメリカもありましたが、大学1年生の時に旅をしたヨーロッパの一国であるスイスに惹かれました。

 スイスへの留学を決断してからは、友人たちが就職活動をしている間は図書館で勉強することに決め、留学に備えました。弁護士になるのは小学生の頃からの夢で、そのために日本の大学では法学部でしたが、そういった事情の延長線上に、まず海外で弁護士になり、そのあと日本でも弁護士資格を取ることによって国際弁護士になるという目標を立てました。

 スイス留学の決意を両親に伝えたのは、大学3年の秋頃だったと思います。きっかけは、両親と自動車で移動していたとき、父から、就職はどうするんだ、と尋ねられたことでした。私が、「就職しないという選択肢もある」と答えると、父は、「どうするということか」と、重ねて尋ねました。私が、「スイスに留学するつもりでいる」と答えると、父は、かなり驚き、「何を言ってんだ」と一言を発しました。父は、「スイスに行くって、どうするんだ?」と尋ねてきました。私は、「大学卒業してから仕事をしてお金を貯める。貯まり次第、行く」と答えました。父は黙り込みました。

 そのときの父との話はそこまででしたが、その後、別の機会に、父は、私に対して、匡斗には安定した生活を送ってほしい、というようなことを言いました。父は、日産厚木の不当解雇に対抗する訴訟に労働組合の一員として深く関わり、雇用主との関係で長く苦労してきたようです。父は、私にはそういった気苦労のない、落ち着いた暮らしを送ってほしかったのだと思います。

 父は私に、「ちゃんと普通の就職をしろ」とだけ言うと、その後は何も言いませんでした。母も同様で、両親は私がどうするのかをじっと見守っているようでした。

(2)父の援助

 私は、友人はもちろん、できるだけたくさんの人に会ってアドバイスを受けながら、留学計画を固めていきました。

 留学費用は、大学1年の時に始めた世田谷区立総合運動場プールの監視員の学生アルバイトと、大学卒業後に同施設に就職して3年間ほど働いて貯める計画でした。

 スイスに息子がいる大叔母にも相談しました。大叔母は、私と同じ20代前半でカナダに渡った人です。彼女は私がスイスに留学したいと伝えると、「あ、そりゃいいじゃない、頑張ってらっしゃい。10年? もっと行くの?」と言いました。私は3年から5年で日本に戻ってくるつもりでしたので、「10年? もっと?」という大叔母の言葉が、今も記憶に強く残っています。

 「10年」というと、想い出されることがあります。学生時代に皿洗いのアルバイトをしていた東京のお寿司屋さんで、大学卒業式の日にお寿司をいただいていたところ、臨席した高齢の紳士に、「スイスに留学するのか、そう簡単なことではないぞ。辛い、諦めたい、もう日本に帰りたいと思った時、その時には少しだけ踏ん張って頑張ってみなさい。そうだ、十年後の同じ日、同じ時間、ここで会おう、それまで君は頑張れ、私も頑張る」などと励まされました。

 2000年、私は大学を卒業し、渋谷区スポーツセンターに就職しました。留学資金は少しずつ貯まっていきました。

 2001年5月のことです。私のところに、いわき市の友人がロンドンに留学するという知らせが届きました。私はまだまだ費用が貯まらず、留学できるまでまだ1年か2年は先になります。私は、遅れをとってしまったようで焦りをおぼえました。

 そんな時、父から連絡が入りました。「早期退職の退職金が入ったので、スイス留学のためのお金を貸してやる」と言うのです。

 この父の援助のおかげで、私は計画よりも早く、この2001年の8月にスイスへ渡ることができました。

 この時に父から借りたお金は、今も少しずつ返済しています。

(3)スイスへ

 スイス留学の目処が立った私は、スイスの従兄に連絡をしました。まだ留学先の大学は決まっておらず、1年くらいは語学学校で勉強し、それから大学に進学する計画でした。私の計画と状況を伝えると、従兄から、「とりあえず来い」と言われました。

 善は急げと、そして10月始まりのスイスの学期に合わせるために、私はすぐに勤め先を退職しました。

 2010年8月、私は成田空港からスイスへ向けて出発しました。両親と大叔母が見送りに来てくれました。

 そのときの私は、3年から5年で日本に帰国するつもりでした。

 スイスに到着すると、従兄が賃貸の宿泊先を用意してくれていました。従兄は、私立の語学学校(フランス語)も探してくれており、私はすぐに入学を申し込みました。

 1年間、必死に勉強し、大学進学の許可が出ました。進学先のジュネーブ大学の国際私法の先生が、日本の大学での単位の算入を認める特別カリキュラム(海外の大学を卒業した者を対象とする特別カリキュラム)をつくってくれ、スイスでの大学生活が始まりました。2002年10月のことでした。

(4)日本国民であることの意識

 語学学校に通っていた時期のことです。私は、自分が日本国民であることを強く意識するようになっていきました。

 きっかけはいろいろあります。まず、スイスで外国人として暮らしていると、日常生活の中で日本のパスポートや在留許可証(国籍がもちろん記載されています。)を携帯することは欠かせませんし、アパートを借りる契約をするときのように自分が日本国籍であることを明示しなくてはならない場面が少なくありません。こうした体験は、私に自分の国籍が日本であることを、繰り返し意識させるものでした。

 また、日本国民であることで一目置かれる体験をすることが少なくありませんでした。どこに行ってもグループ内唯一の日本人として私が「日本代表」になってしまう環境が続く中で、多くの人たちが、「マサトは日本人だから頭いいよね、おしゃれだよね」という先入観を持って、私に接してくるのです。善い先入観を持ってもらえているのは、大勢の先輩たちが善い行いをしてきた結果に他なりません。私は、周囲の先入観や期待を裏切れない、できるだけ良い印象を与えたいと思うと同時に、先輩たちの築いた高い評価を自分が壊すわけにはいかないという責任を感じました。

 こうした想いと意識が、スイスでの苦境を乗り切る助けになっていくのですが、それはもう少しだけ後の話です。

2 スイスでの大学時代

(1)転部

 大学での課程は、なかなか厳しいものでした。授業の内容は理解できても、それをレポート作成や論文試験でフランス語で表現する文章力が身についていなかったのです。論文の作成や読解に著しく問題があり、一年目が終わる前、2003年6月頃、大学から、文学部フランス文明講座​​(Ecole de la Langue et de la Civillisation Française)への転部を提案されました。

 国際私法の教授とも話をし、教授からは、文学部に転部し、2年くらいで法学部の試験を合格するうえで必要なフランス語をしっかり身につけて戻ってきなさいと、勧められました。自分でも自覚している最大の弱点でしたので、明確な道筋でした。そのくらいの遠回りがあることはプランの内でしたし、その時点で日本に帰る選択肢はありませんでした。

 私は、文学部へ転部しました。

 文学部での最初の目標は、サーティフィケートの取得でした。

 ヨーロッパの大学システム(ボローニャ・プロセス)では、免状の種類として次のようなものがあります。

 サーティフィケート(certificate 証明書)

 ディプローム(diplome  高級免状)

 バチュラー(bachelor of arts 学士)

 ライセンス(license 免状)

 マスター(修士)

 ドクター(博士)

 サーティフィケートは、通常2〜3年程度で取得できる免状で、私が移籍した文学部の仏文明学科のサーティフィケートを目指すコースには、一般水準の読み書き、会話能力を習得するためのフランス語能力課程が必須科目にありました。フランス語を母国語としていない外国人学生が夜間に補習として通うこともあるコースです。サーティフィケートを取得して法学部へ戻るのが目的だったのはいうまでもありません。

 サーティフィケートはヨーロッパの共通大学システムの学位では最も低いものの一つですが、それでも当時はクラスの半分以上(3分の2程度)は落第か留年しました。北アフリカのフランス語を母語とする学生ですら、1年目で落第してしまうという厳しいコースで、あれよあれよと次々に脱落していく学生を目の当たりにして、これはただごとではないと、私は合格点を求めて必死に勉強に励みました。

 そして、無事にサーティフィケートを取得し、さあ、法学部へ戻ろうという時期に、日本人の友人のひとりでジュネーブ音楽院に在籍している学生が、私に、こんなことを言いました。

 「どんなに小さな資格でも、一度始めたら最後(資格取得)までやらないといけない。他に移りたくなることもあるけれど、そういうことを繰り返しているとすべてが中途半端になってしまう。」

 それは、その友人自身が自分自身に言い聞かせた言葉だったのかも知れません。しかし、私は自分のしようとしていることと自分の置かれた状況を、振り返ってみました。

 法学部を落第し、文学部に移り、フランス語の力をつけて再び法学部に戻ろうとしている。これは果たして正しいことなのか。また、今、サーティフィケートを取得したからと法学部にもどって、本当に3〜4年で法学部を卒業できるのか。文学部であれば転部後に学んだことを基礎として1〜2年がんばれば卒業できる可能性が大きいが、果たして法学部でそれが可能なのか。悪戦苦闘しても脱落してしまい、無資格で帰っていった日本人や外国人学生が多いが、自分もそうなってしまうのではないか。しかし、法学部に比べて文学部などレベルが低いのではないか。いやどのような免状であろうが、すべての学位にレベル差などはないのではないか……。

 悩みは尽きませんでしたが、いくら悩んでも正解などわかるはずもありません。

 私は、文学部に残りディプローム取得に邁進することに決めました。国際弁護士を目指してスイスに来たはずなのに何をやっているんだろうと自己嫌悪した時期ももちろんありましたが、サーティフィケートなど比べものにならない猛烈な勉強が必要で、悩んでいる暇などすぐになくなりました。

 ディプロームコースの開始時は50人くらいの学生がいたクラスが、最終学年時には、いつの間にか15人ほどだけになっているほどで、想像以上に厳しいコースでした。

(2)留学費用が尽きて

 生活費も大変でした。大学に入って1年くらいで日本から持ってきたお金が尽き、アルバイトで学費と生活費を稼がなくてはならなくなりました。

 従兄に相談すると、彼が共同経営者の一人である一軒家のバーで週末働かないかと誘ってくれました。アーティストをジュネーブ市が支援するプログラムを受けて運営されているバーで、毎週金曜と土曜に、徹夜で8時間くらい働くというアルバイトです。時給が2000〜2500円くらいで、月に10万円ほどの収入になります。当時、家賃が6万円、学費は年間10万円くらいのものを1万円まで抑えてもらえており、これでどうにか学生生活を続けられる目処が立ちました。他に単発のアルバイトが入れば、少しは余裕ができます。

 ところが、大学4年の2006年2月末頃、バイト先のバーが、ジュネーブ市の支援打ち切りで、廃業することになりました。ジュネーブ市としては、起業(スタート・アップ)は十分に支援したので、後は自分たちでどこかで事業を続けなさい、跡地は保育所にします、というわけです。卒業目前の急展開に途方に暮れて従兄に相談すると、「失業しなさい、そして失業保険をもらいながら卒業まで乗り切りなさい」とアドバイスしてくれました。月に8件以上の就職活動をして、それぞれで採用されなかったという証明をスタンプラリーのようにもらうと、失業保険が下りるというのです。私はその方法で大学卒業までを乗り切ることにしました。

 失業者となって2ヶ月目のとき、学生課の求人で、日本語の翻訳のできる人を探している会社を見つけました。私は、失業保険申請用のスタンプをもらう先が一つ見つかったと思い、求人元を訪問しました。事務所に入ってみると、やけに葉巻くさいオフィスです。すぐに面接が始まりました。

 面接官は、私より3歳くらい上の、会社の番頭さんのような立場の方でした。話を聞くと、ファミリー経営で社員は5〜6人程度、一箱3〜5万円の葉巻を売る会社だとのことでした。社長が日本に旅行したときに、日本は市場として期待できる、インターネットをつかって日本向けの販売営業を開始したい、そのためのホームページの翻訳をできる人を探している、という求人です。

 当時の私は葉巻に特に興味はなく、「ああ、そうですか。私は卒論を始めるところなので、半年くらい、週10時間くらいであれば、働けます」と伝えました。バーでアルバイトしていたのと同じくらいの収入が入る計算ですが、こんな勝手な条件は受け入れられないだろうと、頭から思っていました。ところが、「なら、水木の午後だけ。来週か、できれば今週から来てください」と、その場で採用が決まりました。

 私に任されたのは、会社情報のほか、葉巻300〜400銘柄の説明など、インターネットでの販売営業に必要な情報をすべて英語から日本語に翻訳する仕事でした。かなりの分量があり、すべてを翻訳するまでに、毎週2回、一回10時間取り組んでも、4月に始めて9月か10月頃、大学卒業目前までかかりました。

(3)大学卒業後の進路

 バイト先のバーが潰れてから葉巻会社のアルバイトを始めた時期は、私が大学4年生で、卒論完成や口頭試問の準備に追われていた時期に重なります。大変な状況でしたが、私の人生の中で最も勉強に時間とエネルギーを注いだ時期でもありました。日本での大学受験のときは睡眠時間3時間を1年間続けましたが、そのときよりもはるかに大きなエネルギーと集中力が必要で、非常に充実した毎日でした。

 文学部の卒業が見えてきた私は、卒業後の進路を考えました。

 スイスの大学を卒業した時点で28歳で、日本での社会人経験は1年程度、日本に帰って良い就職口を見つけられる自信はありませんでした。また、法学を志し国を飛び出した手前、志半ばでおめおめと中途半端の日本に舞い戻るわけにいかないと思っていました。

 私はパリのソルボンヌ大学の法学部に願書を出し、入学試験を受け、入学許可を得ることができました。2006年7月頃のことです。私は、ソルボンヌへの進学に向けて準備を始めました。

 8月か9月のことだったと思います。バイト先の葉巻会社の社長から、突然、こう誘われました。「実は君が翻訳してくれてありがたい、質も良いようだ。私たちは日本語が全くわからない。お客様の相手をしてくれる人が必要だ、うちの会社に残って正社員になってくれないか」。

 思いもよらない提案でした。しかし、スイスは外国人に労働許可を簡単に出す国ではありません。私の知り合いの日本人にも、労働許可を取得できず日本へ帰っていった友人やEUの他の国に移っていった友人たちが大勢いました。強制送還された友人もいました。私は咄嗟に、「滞在許可、労働許可がありません」と答えました。すると社長は、「心配ない、うちは高い弁護士を使っている」と即答しました。私がさらに、「大学1年の時に、卒業したらスイスを離れるという誓約書を市役所で書かされている」と言うと、社長は、「本人が希望すればできないことはないはずだ。ぜひ我が社に就職してくれ」と、さらに熱く誘ってきました。

 私は、自宅に帰り、どうするのが良いのか、冷静に考えてみました。

 卒業できることは確定しており(当時15名ほどのクラスで卒業できたのは私を含めて2人だけでした。学士ではないとはいえディプロームは立派な学位で、地元の新聞に卒業者として私の名前が掲載されまました。)、大学卒業が目前で、ジュネーブのアパートも出なければならない時期です。ソルボンヌ大学への入学許可は出ています。もともと国際私法を学ぶためにスイスに来たのです。私にジュネーブに残る理由は何もありませんでした。

 ただ、労働許可(Bパーミット)をもらえるというのは、滅多にないチャンスに思えました。友人たちがパーミットを取ることができず、諦めて出国していくのを何人も見てきました。

 そんなに難しいのをもらえるのならもらってもいいかなと、考えました。

 今、自分は28歳。勉強は35歳になってからでもできる。でも、スイスのパーミットは今しか取れないだろう。

 私は、就職を決意しました。会社で契約書を作ってもらい、サインし、パーミットの申請の書類を集めて会社に渡し、大学卒業と同時に、正社員として働きはじめました。

3 スイスで就職して

(1)就職とBパーミット

 会社では、日本に向けて葉巻を販売する仕事を任されました。まさに任された、という言葉のとおり、デスクを与えられると、その後の指示はありません。私は手探りで営業活動に取り組むことになりました。

 この時、私はすでにBパーミット(労働許可)が下りているものと思って仕事をしていました。ところが、1年ほど後、そうではなかったことを知りました。新たに上司になった人が、「匡斗、すごいな、お前は9人のライバルに勝ってパーミットをゲットしたんだぞ。移民局はあなたのようなアジア人をとりたくなかった。それで半年くらい9人の候補を提案してきて、それにあなたはすべて勝って、パーミットを手に入れたんだ」と教えてくれたのです。どういうことかと説明を求めると、移民局と提携している失業対策局が、私以外の他の人を雇わないか、スイスにいる他の候補者またはヨーロッパ圏内の失業者を雇ってほしい、と斡旋してきて、最終的にパーミットが得られるまで半年くらいかかっていたのだそうです。私は驚くと同時に、パーミット取得者として恥ずかしくない仕事をしなければと、心理的な責任が重くなるのを感じました。

 ここで、パーミット(滞在許可)について説明しておきます。

 スイスでは滞在許可が数種類ありますが、Bパーミットと呼ばれる滞在許可には、労働者用滞在許可、学生用滞在許可、扶養家族滞在許可などが含まれます。労働者として滞在する場合は、労働者用滞在許可であるBパーミットを取得して働き始めるのが一般的です。スイスは外国人の流入対策として、新規の労働許可発行を制限する目的で、すでに市場にいる同資格者へ積極的に雇用促進・斡旋しますが、上述のとおり、私の場合は9人のスイスおよびEUにいる日本人または他国籍の候補者と比較・選考され、労働者用滞在許可としてのBパーミットを得ることができました。他の人が採用されていれば私に労働者用滞在許可は下りなかったはずです。

 Bパーミットは、後に私が取得したCパーミットに比べ、スイス政府は審査が厳しい上に更新にも消極的です。更新の度に移民局に出向いて早朝から順番待ちの行列をしたり、少ない窓口の待ち時間に長時間待たされたりします。Bパーミットは、最悪の場合更新されないということもあります。

 Bパーミットで労働を始め、10年間、勤続して税金を払い続けると、Cパーミットへの切り替えがなされます。今の私は、Cパーミットを取得し、働きはじめた当初に比べれば安定した滞在資格があるといえますが、スイス国籍とはやはり比べものになりません。このことは、後でお話しします。

(2)死に物狂いの日々

 私は、葉巻の取引の知識も何もない状態で、上述のとおり、日本に向けて葉巻を販売する仕事を任されました。研修などまったくなく、指示されたのは、給料の5倍くらいを売上げてほしい、売上げに対応してボーナスが出る、売上げが上がるなら何をやっても良い、というだけです。まったく手探りでの出発ですから、営業成績は惨憺たる時期が続きました。がんばっても空回りで、まったく結果につながりません。当時の日本市場は市場規模が5人くらいで、それをなかなか拡大できず、プロモーションや商戦直前の会議では、「匡斗は真剣に聞かなくていいから」と、まったくの、みそっかす状態が続きました。上司から「君は会社にとってコストだ」と面談の場で言われたことが何度もありました。

 就職して2009年頃まで、4年間近くは、何をやってもうまくいかず、もう日本にかえろうかなと考えたことも幾度もありました。

 そんなとき、決まって想い出されたのが、大学卒業式の日にお寿司屋で相席した老紳士との約束でした。「スイスに留学するのか、そう簡単なことではないぞ。辛い、諦めたい、もう日本に帰りたいと思った時、その時には少しだけ踏ん張って頑張ってみなさい。そうだ、十年後の同じ日、同じ時間、ここで会おう、それまで君は頑張れ、私も頑張る」。私は彼の言葉を想い出し、できることは何でもやって、10年を目指さなければと、気持ちを強くしました。友人たちにも相談し、一生懸命やるしかない、と助言をもらいました。それしかないのは、私もわかっていました。残業のないスイスで深夜まで残業をし、日本に帰国して市場調査を行いました。高級スーツを買い、営業で走り回りました。すべて自腹でした。同僚たちの何倍もの力を仕事に注いできたと思います。

 そういう苦しい時期に、日本のためにとか、日本を代表してといった気持ちが、私を支える力になりました。与えられた持ち場の中で、先人が築いてくれた日本の良いイメージを傷つけることなく、日本人の名に恥じない姿を見せたいという気持ちが、原動力になってくれました。寝坊したい、休みたい、仕事をしたくない、という気持ちに負けないで力を尽くす毎日の積み重ねが、良い仕事、成果につながっていきました。必死に営業を続けるうちに、だんだん売上げが伸びていきました。

 売上げが伸びはじめた頃、私は、市場動向に左右される営業マンとしてこのまま続けることに危うさを感じていました。もともと日本の葉巻市場が小さいこともあります。そこで私は、会社全体の在庫の管理業務も担当したいと、上司に申し出ました。上司は、「日本の市場は小さいから在庫管理もやってくれ」と、即答してくれました。在庫管理は、会社で扱う葉巻の知識を身につける機会にもなります。そこから新たな販路を開く鍵も見つかるかも知れません。

 こうして私は、2010年頃になってようやく、いつ首を切られるのかという不安の毎日から脱出できたのでした。

 2010年3月。私は、10年前の卒業式の日に私に檄を飛ばしてくれた老紳士に会うため、東京のお寿司屋さんに行きました。彼は現れませんでした。何か事情があったのだろうと思います。私は今も、彼のくれたエールが忘れられません。

(3)続く死に物狂いの日々

 ようやくお荷物だと言われなくなった2010年。私は思わぬ事故に遭いました。趣味のバスケットボールをしていたときに眼窩骨折をして、全身麻酔の手術で入院となり、医者からは安静を命じられたのです。

 しかし、日本の顧客への対応が途切れれば、これまでの苦労が水の泡になります。私はこんなことで自分のキャリアをあきらめたくないと思い、その痛みをこらえ、片目を閉じながらむりやり仕事を続けました。元の木阿弥にはなりたくない、以前のような状況にはもどりたくないと、必死でした。

 翌年、東日本大震災が起きました。父は中国に単身赴任中で、いわき市に母が1人で暮らしていました。姉が母をつくば市へ避難させてくれました。原発が爆発する直前でした。私は日本からのニュースに不安を募らせていました。

 それでも、2011年から2012年にかけて、円高で日本市場での会社の売上げが大きく伸びました。ちょうど別の市場で問題が起きていたときだったので、社長から「マサトのおかげで会社が救われた」と言われたほどでした。

 その後、2014年末に営業担当の日本人が入社し、私の仕事の中心は在庫管理に徐々に移行していきました。

 いつしか、ソルボンヌ大学に進学するとか国際弁護士になるとかの道は、頭の中から消えていました。目の前の仕事に必死で取り組むうちに、成果が生まれ、仕事の面白さもわかってきました。

 この会社で培った知識と力を活かして、キャリアを築いていきたい、それが自分を最も活かす道だと、私は考えるようになりました。その先にこそ、私ができる故郷や日本への恩返しがあるはずです。

 そして、Bパーミットで働きはじめて10年という節目が近づき、Cパーミットが見えてきました。

(4)Cパーミットの取得

 Cパーミットという資格は、日本の永住ビザのようなものです。

 スイスの法律では、就労ビザ(Bパーミット)を取得して週40~42時間労働を10年間途切れなく続けると、Cパーミットに切り替わります。その10年の間に、事故に遭ったりして仕事ができない期間が一定以上続いてしまうと、それまで積み重ねてきた就労期間は無かったことにされ、リセットされてしまいます。

 Bパーミットだった期間、私は、どんなに体調が悪くても、我慢して必死で働いてきました。長期の国外旅行に行くこともできず、日本への里帰りも短い旅行に限られました。里帰り中もパソコンを持ち歩き、休暇先や機内でも仕事をしていました。毎日仕事をしていました。とにかく死に物狂いの、無我夢中の10年間でした。しかしそれはCパーミットを取りたいと望んでいたからではなく、ともかくクビにならずに働き続けられたい、そのために売上げを上げたい、自分に力を付けて行きたいと望み、そのために必死でもがき、戦ってきたというのが実際の心境でした。そうして気がつくと、いつの間にかCパーミットを得る資格が手に入るところまでたどり着いていたというわけです。

 2016年12月、私の資格はCパーミットにアップグレードされました。

 Cパーミットの許可証が届いたとき、私は、「これでようやく安定した生活ができる。仕事に集中できる」と、心底ほっとしたのを覚えています。先に説明したようにBパーミットは生活面での制約が多く、精神的な宙吊り感というか、いつ何どき不慮の事態によって滞在資格が失われるかもわからないという不安がつきまとう資格なのです。私はその不安定な状況からようやく解放され、うれしくてなりませんでした。ついつい、就職した当時からの同僚である友人や、ボスにも許可証を見せるというか見せびらかして、報告というか、うれしさを伝えました。友人もボスも、私が苦労してきた時期をずっとそばで見守ってくれていた、家族同然の間柄の人たちです。自分のことのように大喜びしてくれました。

第2 スイス国籍取得の必要性

1 スイス国籍取得要件の具備

 私は2001年8月にスイスに渡りました。間もなく19年になります。

 Cパーミットも得て、現在、私は手続をすれば、スイス国籍を取得できる条件が揃っています。これについては、「第4 訴訟要件について」で後述します。

 今、スイス国籍は私の手の届くところにあります。

 スイス国籍は、CパーミットやBパーミットとは全く違います。CパーミットはBパーミットより安定しているとはいえ、どちらも外国人としての在留資格でしかありません。どちらの資格があっても国レベルでの参政権がありませんから、EUとスイスの関係を決めるような、自分の生活に影響する重要な意思決定に参加できません。また、BパーミットはもちろんCパーミットも永住の権利ではなく、一定期間スイスを離れると原則として失効してしまいます。Cパーミットでさえ、あくまでも不安定な在留資格にすぎないのです。

 ですから、スイスで暮らし、スイスで仕事をしている以上、スイス国籍を取れるなら取ったほうが良いに決まっています。

 しかし私はスイス国籍取得の道が拓けたにもかかわらず、取得を躊躇しています。

 友人や同僚からは、「なぜ申請しないの?」と聞かれることもあります。「スイス国籍を持ってるんじゃなかったの?」と聞かれることさえあります。私が、日本の国籍法で日本国籍がなくなるからスイス国籍は取れないでいると説明すると、皆、不思議そうな顔をします。スイス、特にジュネーブは、複数国籍が当たり前の社会だからです。

2 スイス国籍取得の必要性

 私が日本国籍を失いたくない理由は、あとで述べます。ここでは、スイス国籍が必要である理由を、説明したいと思います。

 (1)キャリアのために

 私がスイス国籍を取りたいと望む1つの理由は、「キャリア」のためです。

 私のキャリアは、スイス国籍を持っている方がチャンスが広がります。たとえば、同僚たちと出張するために飛行機のチケットをとるとき、スイスのパスポートでないと時間がかかります。これは、ささいなことのように聞こえるかもしれませんが、大きな意味をもっています。

 空港では、スイス、EU以外の国籍のゲートは混んでいます。乗換えの時間が短いときは、スイス国籍を持っていない人は乗り換えできるかどうかが不確実になります。そうすると、誰かを出張させるとき、スイス国籍を持っている同僚が暗黙のうちに優先されます。3年前、私の会社ではイギリス国籍の同僚がスイス国籍を取得しました。上司が出張に連れて行きやすいのは、私でなくスイス国籍の彼です。

 このような小さなことでも差がついてしまうスイス社会での厳しい競争の中で、私は暮らしています。私としては、自分の選んだ道ではありますが、正直なところ、自分だけが足かせをはめられているような、忸怩たる思いをいだくことがあります。

 私は、スイスでのキャリアを成功させて、その成果を日本に持ち帰りたいと考えています。持ち帰れるだけの大きな成果を上げていくためにも、スイス国籍を取得して足かせを外したいと、望んでいます。

 海外には、私のように、仕事でがんばって昇格して、日本に還元したいと考えている人は大勢いると思います。たとえるなら、日本のためにがんばっているミツバチ、働き蜂たちです。現地国籍がある方が、皆、安心して仕事ができ、心の余裕が仕事の成果につながり、日本に還元する力も生まれます。

 また、もし将来、私が事故や事件、失業などで働けなくなったとき、Cパーミットのままで大丈夫なのか、外国人として強制退去に追い込まれてしまうことはないのか、時の政治情勢にも影響されることでしょうが、不安がぬぐえません。

 (2)家族のために

 私がスイス国籍を取りたいと望むもう一つの理由は、「家族のため」です。

 私は2017年3月1日、結婚しました。妻は台湾の出身です。

 スイスは国籍については基本的に血統主義の国ですから、将来私たちの子どもがスイスで生まれても、今のままでは子どもはスイス国籍を取れません。私の今後のキャリアを考えると、子どもはスイスで育つことと思われます。私は、子どもには自分が生まれ育っていくスイスの国籍を取らせてあげたいと願います。そうでないと、子どもが、なんらかの事情で働けなくなって無職になってしまったときなど、スイスから日本か台湾へ追放されてしまう可能性があります。そんな状況は想像したくもありません。

  家族の国籍に関する私のもう一つの願いは、「家族全員で共通する国籍を持つこと」です。

 私がCパーミットを持っているので、私の妻は、遠からずスイス国籍を取得できるでしょう。台湾は複数国籍を否定していませんから、妻はスイス国籍取得に抵抗がありません。そして今、私がスイス国籍を申請すれば、ほぼ確実にスイス国籍が取れる状況です。もし私が実際にスイス国籍を取れば、将来生まれてくる私たちの子どもも含めて、スイス国籍が私たち家族共通の国籍になります。私が台湾国籍を取得したり妻が日本国籍を取得したりできれば良いのかも知れませんが、スイスに生活の基盤がある今、いずれも現実的ではありません。スイス国籍を家族共通の国籍にすることが、最も現実的な方法なのです。

 反対の場合を想像してみてください。もし私が日本国籍を失いたくないと言ってスイス国籍を取らなければどうでしょうか。そのときの私たち家族には共通の国籍はありません。そうなると、普段は国籍を意識しなくても、国際的な危機が起きたときには、私たち家族には大問題が発生します。私たち家族は同じ国に保護を求めることができず、家族が分断されてしまいかねません。今の自分に想定できる限りの事態でさえ、想像するとぞっとします。

「いつか家族が分断されるかもしれないという不安の中で暮らす」。

 私はそんな暮らしが正しいことだとは思えません。

 このような不安は、日本で暮らす外国人の家族も、抱えていることだと思います。外国人としての在留資格が、家族の中でバラバラであるなどして、家族が離散させられるケースもあると聞いています。振り返れば、私も妻と結婚したとき、私がスイス国籍ではないため、妻の呼び寄せをスイス政府に認めてもらうのに、手間と時間がかかりました。

 私は家族を守るためにスイス国籍を取らなければなりません。

(3)キャリアと家族、救済のためのスイス国籍

 このように、私にとってのスイス国籍は、仕事、キャリアのためであるとともに家族を結ぶものであり、救済でもあります。

第3 日本国籍を失いたくない理由

 1 日本国籍とスイス国籍の耐え難い二者択一

 以上、お話してきたとおり、私がスイスに渡ったのは、スイスで力をつけて日本に帰ってくるため、スイスでの経験を日本で生かすためでした。

 そして、これからお話するように、その夢の先には、自分を育ててくれた故郷であり祖国である日本にお返しをしたいという願いが常にありました。

 そうであればこそ、私にとってスイス国籍を取得することは、私の能力を存分に発揮して仕事で成功し、日本に錦を飾るという人生の目標に不可欠なことであります。同時に、私にとってスイス国籍を取得することは、何よりも家族のため、家族と安心して安定した生活を送りたいという、人としてのささやかな望みをかなえるために、どうしても必要なことなのです。

 ところが、私がスイス国籍を取得すると、日本国籍が奪われてしまいます。

 それは私にとって、耐えられることではありません。

 私が日本国籍を失いたくない、奪われたくないと願う理由を、これからお話ししたいと思います。日本国籍を失うか失わないかの決断を迫られる状況にない人には、伝わりにくい内容かも知れません。しかし、できるだけ筋道立てて、論理的にお話したいと思います。

 2 日本人として凱旋し、日本と故郷に恩返ししたい

(1)理由は幾つかあります。

 第1でお話ししましたとおり、私がスイスに渡ったのは、鉄砲玉のように日本を捨ててスイスに骨を埋めるためではありません。スイスで力をつけ、その成果を日本に持ち帰りたい、という気持ちで、留学しました。この気持ちは、今もまったく変わっていません。

 今はスイスが、私のビジネス・スキルを最も発揮できる国です。もし今、日本にある企業から「運転手付きの車で毎日会社に通うようなポジションを用意されたら帰る」などと友人たちには冗談まじりに話していますが、そんな話はそうそうあるものではありません。

 私は、日本人の両親のもとに日本で生まれました。祖国日本のために力を尽くした先祖の生き方に、誇りと愛情を抱いています。私の人格形成を助け、海外で奮闘できる力を育ててくれた祖国日本に、誇りと愛情を抱いています。世界に日本の良いイメージを広めてくれた先人たちに、誇りと愛情を抱いています。私は、祖国である日本にいつか恩返しをし、事業者として、日本国民として凱旋したいという気持ちを、今も持ち続けています。この気持ちが、スイスでの学業や仕事が壁にぶつかったとき、私を支え、踏みとどまらせてくれました。

(2)私は日本人です。

 私の祖父は第二次大戦で苦労し、祖父の弟は戦死。父方の祖父はノモンハンで拘留されて苦労しました。皆、体験を話したがりませんでした。そういう姿勢を私は尊敬しています。父は、日産で、高度経済成長に貢献してきました。最後の10年は日本企業の中国にある工場と香港の関連会社に赴任し、仕事をしてきました。祖先みんなが日本のために、祖国、家族が平安に暮らせるように、守ってきたという自負があります。彼らと同じように自分も、日本人であることを継続していきたい、日本のために貢献していきたいのです。

 私は、日本に、日本人として凱旋したい。力をつけて、皆から「お帰りなさい、よく頑張った!」と認めてもらえるような成果を持って、錦を飾りたい。だからこそ日本国籍を奪われたくない。失いたくありません。

 日本国籍を失わないことは、いわば私の人生にとって不可欠なことなのです。

(3)こういう気持ちを持つようになったのはいつ頃だったのか、振り返ってみました。

 想い出されるのは、福島の中学校、校名がまさに「錦中学校」での光景です。小さな中学校で、男子は丸坊主か五分刈り、女子はスカートの長さや髪の長さが厳しく定められている中学校でした。その学校に、初老の、たしか教頭先生だったと思いますが、私が深く敬愛する先生がいました。​​居眠りの学生を引っ叩いて起こしたり、くも膜下出血になった経験を話してくれたり、寒い朝には起きたらまず湯を沸かすのが部屋を温めるのに有効だと教えてくれたり、いろいろなことを教えてくれた先生でした。その先生が、ある年の体育系の部活の大会への壮行式で、檄を飛ばしました。「全国大会に出て一つでも多く旗を持って帰ってこい」「錦を飾れ」「頑張って帰ってこい!」と。

 広い世界に飛び出して、全力でがんばり、その成果を故郷のコミュニティに持ち帰る。それが人として自然な生き方なんだと、その先生が教えてくれたように私には思えました。敬愛する先生の言葉だったから、特に心に響き、今も心に残り、人生の指針になったのかも知れません。

(4)私を育ててくれ、人格形成を含め、海外で力を発揮できる基礎を育んでくれたのは、故郷であり祖国でもある、この日本です。

 私の父の故郷は北海道で、私は神奈川県厚木市で生まれ、中学2年生のときに福島県いわき市に移り住みました。錦中学校から福島県立磐城高校、そして東京の青山学院大学に進学しました。

 県立磐城高校の同級生には、双葉・大熊・富岡・浪江・楢葉といった2011年の原発事故で避難区域に指定されてしまった地区の出身者が多くいます。私の母も、2011年の震災発生直後にいわき市を離れて茨城県牛久市へ避難しました。当時、中国に赴任中だった父も、その後、母と合流しました。

 原発事故発生当時スイスにいた私は、高校時代の同窓生から、故郷を失った無念や悲しみを、伝えられました。高校時代の親友の祖母、95歳だった彼女は、フクシマの事故の後、故郷いわき市を離れた避難先の病院で亡くなりました。親友は大きな怒りを私に訴えました。せめていわきで最期を迎えさせてあげたかった、これは人災だ、と。

 他の友人たちからも、家族が仮設住宅で死亡したとかいわきの放射線量がどうなっているとか、いろんな話を聞いてきました。私には、原発事故で故郷のいわき市を奪われた、壊されたという感覚が強くあります。

 だからこそ、自分の育った国、環境、好きな文化が根付いていて、続いていってほしい、そのために貢献したいと強く望んでいます。

 2014年にジュネーブ有志が開催した震災3周年復興映画プロジェクトに参加したのはそのような理由からでした。また、フクシマの原発事故の後、ジュネーブで、日本旅券の更新手続に行った時のことです。領事館からのEメールで指示された内容に従って必要書類を揃え、仕事を抜け出して、自動車で領事館へ行ったのですが、「書類が不備です、また来てください」とのことで、その日は更新ができませんでした。私は後日、領事館にメールを送りました。「フクシマのあと、日本のためになれるようにと、今の職場でがんばっている。また仕事を休んで領事館に行かねばならないとなると、職場の中で私の立場が小さくなる。がんばっている日本人をサポートしてください」といった内容です。私は、日本の家族たちが日本にいて、自分はたまたま外にいるだけで、縁があって、ここで活躍するのが一番能力を発揮できるのです、日本のために。海外で頑張っている日本国民を領事館には応援してほしいと、心から思います。

 私は、故郷、祖国に、日本人、日本国民として恩返しをしたい、日本国民として育ててくれた故郷、祖国に、日本国民として恩返ししたいと望んでいます。私が生まれ育った街、たとえば神奈川県厚木市、たとえば福島県いわき市、または東京都の行末を決める、そして日本の行く末を決める統治に関する決定に、参加していきたい。国内の他の地域や国外に転出したからといって、私の人格形成を支えてくれた愛しい街とのつながりがなくなることはないのです。

 こう言うと、「日本国籍がなくなっても恩返しはできるでしょ」などと言われるのかも知れません。参政権以外についてはそのとおりかも知れませんが、さみしく、悲しい気持ちになります。日本人として生まれて、なぜ日本人として日本に恩返しをさせてくれないのか。国籍もパスポートも、何十年もそれを前提に暮らしてるとアイデンティティに、自分自身のかけがえのない一部を構成するものになっています。海外で暮らしていると、国籍を意識させられる機会が多い分、アイデンティティに深く結びきます。それなのに、それが「仮」のものだといわれたら、「えっ!?」となります。「取り上げられても貢献はできるから問題ないでしょう」というのは、何か違うんじゃないかと、はぐらかされた気持ちになります。犯罪を犯すとか日本国籍を悪用するとか考えているわけでもないのに、おかしいんじゃないかと思います。

(5)一昨年(2018年)10月の意見陳述の時にお話しましたが、私は、日本を代表する天皇陛下から勲章をいただけるような、同胞である日本国民の多くから認めてもらえるような何かをして、日本に貢献したい、日本人として自分が存在する意義、自分が何をしたかの証を残したいと望んでいます。

 天皇陛下からの勲章をいただくというのは、今の日本では、日本国の大部分の人から褒められるのと同じことだと思います。家族からもご先祖様からも褒めてもらえ、日本国の大部分の人からも仲間として、頑張った仲間として褒められることです。そのとき私は、胸を張って、私は日本人だと言いたい。この目標のために、私は今、日々の生活を律しながら、仕事に全力を注いでいます。

 その目標のために具体的に何ができるのか、何をするべきなのか。方法としては、ビジネスで成功してその利益などを日本のために活用することや、異国で暮らしているからこその視点などを日本のために活かすことが、できるだろうと考えています。

 前者の方法については、私がビジネスキャリアを積んできたスイス、葉巻のビジネスを通じて知り合った妻の母国である台湾、そして私の祖国である日本の3カ国をつなぐ貿易で、日本に貢献していきたいと考えています。そのときに私に日本国籍がないと、日本との貿易の関係で有形無形の障壁が生じてくるのではないでしょうか。必要な手続が増えたり時間がかかったりして、日本スイス台湾の三角貿易をしようとしても、したいことの半分もできなくなると思います。

 後者の方法については、主権者である日本国民として、微力でも日本の舵取りの決定に参加するのが、正当な方法だと思います。私がもし日本国籍を失って、一人のスイス人として日本のためを思って発言しても、どれほどの日本人が真摯に受け止めてくれるでしょうか。私が外国生活を通して得た視点を日本のために活かしていくには、私が日本国民であり続けることが必要なのです。

 海外で暮らした日本国民の視点を日本のために活かすことは、これからの日本にとって有意義なことのはずです。今は江戸時代とは違い日本には日本人しかいない時代は終わって、海外に出る人間も増えています。日本との関係をもちつつ世界に羽ばたく。出ていったままの鉄砲玉ではなく、海外経験を日本に持ち帰りたい、海外で一旗揚げて帰国したい、海外から家族を支えたい、祖国にお返しをしたい、還元したいという気持ちをもって、海外に出ている人も珍しくないと思います。海外に出て生活をするということは、江戸時代や明治時代とは違って、特別なことではなくなっています。海外に出ても、航空機や通信手段の発達で、日本とのつながり、日本の家族や友人たちとのつながりを維持しつづけることは、きわめて容易になってきています。

 私も、日本に貢献したいという思いを持って、スイスで毎日、必死に戦っています。出たきりの鉄砲玉になるつもりも日本国籍を放棄するつもりも、ありません。

 日本国籍を奪われることは、私にとっては、私の人生の目標を根底から打ち砕かれることであり、私の人格の一部を暴力的に奪い取られることです。同時に、私の意思・希望、正しいと思うことを、正しくないと理解されてしまうことでもあります。

 日本国籍を失うと、戸籍から抜かれ、日常の生活の中でも、自分の国籍を書かねばならない時に「日本国」と書く機会がなくなってしまいます。その都度、私は、ひどい喪失感に苛まれるだろうと思います。祖国に貢献したい、恩返ししたいという気持ちが弱まることはないでしょうが、寂しい気持ちになるだろうと思います。

 外国籍を取得したからといって、なぜ日本国籍を奪われなくてはならないのか。私にはまったく理解ができません。村八分のような、グループから蹴り出されるようなことを、私はしたつもりも、するつもりもありません。

 日本国籍を、主権者の私から奪い去る。どうしてこんなことが許されるのか。海外で成功した日本国民として日本に貢献したい、日本に凱旋したいと願う私のような日本国民の素朴な願いが、なぜ否定されなくてはならないのか。私にはまったく理由がわかりません。

 3 家族を守りたい

(1) 日本国籍を失いたくないもう一つの理由は、スイス国籍が必要な理由と同じく、家族を守るために必要だからです。

 私は、自分のビジネスの成功はもちろんですが、それによって日本の家族を支えたいという気持ちを持ちつづけてきました。成り行きでスイスで働くことになりましたが、根底には家族を支えたい、祖国日本に恩返ししたいという気持ちがあります。何のためにスイスで頑張っているのかと言えば、根底は家族、そして祖国です。

 私の場合、家族を守る、家族の幸福を最優先するという単純な話についても、国籍という要素が複雑に関係します。私の両親は日本人です。ですが私の妻は台湾人で、彼女の両親も台湾人です。そして、私たちはスイスに住んでいます。妻と出会ったのはそれらのどこでもなく、キューバでした。台湾で台湾式の婚姻をし、日本の区役所で婚姻を認めてもらいました。もしも日本かスイスで婚姻した場合には、妻の国籍が国交の問題で中国国籍と扱われてしまい、いろいろな手続きで支障をきたすことになるのではないかと検討した結果の手続でした。私たちはただ普通のカップルであるだけなのに、一つの手続きをするだけでもいろいろな国籍が絡み合い、時に先のことについて熟考を必要とします。

(2) 私が日本国籍を失ってしまえば、親の介護をはじめとする家族の幸福について、大きな不安が生じます。

 私には姉が一人いて、両親の近くで暮らしています。姉や両親とは、両親の将来の介護について何度も話をしています。

 両親は私たちに、「余計な心配はかけたくない。墓もいらない。海に散骨すればいい。面倒になる前に消えるから大丈夫だ」と言っていますが、思ってもみなかったことが起きうるのが人生です。この裁判を応援してくれている方で、アメリカの市民権を取得した元日本国籍の方は、長年赴任して暮らしてきたアメリカで永住するつもりでいましたが、日本にいる母親の介護をしてくれていた弟が事故で身動きできなくなり、アメリカでの暮らしを捨てて日本に帰らざるを得なくなったのだそうです。帰国当初は日本人として暮らしていましたが、旅券更新時にアメリカのパスポートを所持していることを指摘され、「不法滞在ですね」と言われ、今は外国人として日本で暮らしているのだそうです。

 もし私の姉に病気や事故があって、私が両親の介護を担うことになったとき、私に日本国籍がなく、日本に住所もなかったとしたら、私に日本で十分な介護をすることができるでしょうか。スイスに招けば良いと言われるかも知れませんが、親の希望もあります。親が最も安心できる環境で過ごしてもらいたいですし、それが親孝行だと思います。

 また、介護まで行かなくても、両親の一方が亡くなって私が存命の親の面倒をみることになったとき、たとえば私が親のためのアパートを探したり入院の保証人になったりしようとしても、日本国籍がなく、日本に住所がなく、日本のクレジットカードもないと、何もできないか、大きな支障になるのではないかと、不安でなりません。思えば、私の従兄は、大叔母(彼にとっては母親です。)が日本の施設で最期の日々を送っていたとき、その日々を母親と共に日本で過ごしたいと、日本で仕事を探しましたが、日本国籍がなく、日本語も話せず、仕事が見つからなくてかなわず、最期を看取ることができませんでした。

 親の介護をはじめとするこうした問題は、いつ起きるかもわかりませんし、それが起きたときの法制度や行政、民間事業の仕組みなどで、私に日本国籍がないことの影響は違ってくるでしょう。しかし、子として、親に幸福に死を迎えさせてあげたいのに、日本国籍がないためにそれができなくなるおそれがほんの少しでもあるのだとしたら、私は日本国籍を失うわけにはいきません、やるべきことができなくなるのは、耐えられません。

(3) 私の妻や子ども、孫たちが、日本で暮らしたいと願う時が来るかも知れません。

 私は、結婚してから毎年、台湾の義父母を訪ねています。義父は日本で働いていたことがあり、日本語がぺらぺらです。義母と私は、片言の中国語と身振り手振りで会話しています。その度に私は、義母といつか中国語で話し合えるようになりたいと思います。そのために、遠くない将来、1~2年間、台湾に住んで中国語を勉強したいと考えています。

 妻もいずれ、私と同じような理由で、日本に住みたいと言うかも知れないと思います。そのとき、私に日本国籍があれば日本で暮らすことも容易でしょうが、私に日本国籍がなければ、手続や在留資格で大きな制約が生じるでしょう。

 いつか私たちに子どもができれば、私は子どもに日本の教育を受けさせたいと思っています。スイスでは、水曜土曜の午前中に補習校がありますので、読み書き、会話は学ぶことができます。そして将来、子どもが日本の大学に行きたい、日本に住みたいと希望するようになったら、私はぜひ応援したいと思いますが、保護者である私にも子ども自身にも日本国籍がないと、一般の外国人として日本に入国し日本で暮らすことになりますので、不便や制約が生じるのでないかと思います。

 妻や子どもたちの幸福、選択肢を守るためにも、私は日本国籍を捨てたくありません。

(4) 以上、お話しさせていただいたように、私の人生の幸福にとって日本国籍は不可欠です。故郷に日本国民として錦を飾り、仲間として歓迎されたい、褒められたい。両親や妻子に最善、最高の環境を提供したい。こうした望みを叶えるには日本国籍が不可欠であり、私は日本国籍を失いたくありません。そして、その人生の終着点で、私は、日本で、日本国民として死にたいと願っています。

 日本で日本人の親から生まれ、日本国籍をもつ日本人として、日本国籍をもつ家族や友人たちに囲まれて人格形成をし、人生の目標を見出してきた私にとって、日本国籍は人生にとって必要不可欠です。

 「人生にとって必要不可欠」というのは、生活や旅行や仕事といった実際的な面だけの話ではありません。家族や友人たちそして日本社会とのつながりが日本国籍によって保障され、仲間はずれにされたり追放されたりしないという安心感や、自分の一部をなくさないですむという安心感は、何物にも変えがたいものなのです。

(5) 私が日本国民としてスイスで暮らし、スイス国籍の取得を希望しているという現在の状況は、スイスに渡るときに目指していたことではありません。スイスでいろいろな壁にぶつかり、それを乗り越えようと踏ん張り、足掻き、全力で戦ってきた結果、今、ここにいます。

 私はスイスや外国に暮らしている日本国民の中の、珍しくない一人です。私はもちろん、大勢の人たちが、異国での苦労や制約に苦しめられながら、外国籍を取得して現地での「生活と安全の保証」される状態を望むと同時に、日本国民として生きていきたい、そう自然に願っています。

 なぜ私たちのこの自然な要求、私たちが私たちであり続けるために必要なことであるのに、それが叶えられないのか。二者択一でどちらかを選ばねばならないなどということになってしまうのか。さっぱりわかりません。

 私は、日本という国は、日本国民がそれぞれの可能性を発揮して幸福を掴んでいくのを応援し支援してくれる、たとえるなら私の父のような存在だと思っていました。私の父は、私が今回の訴訟で意見陳述をすることになったとき、名前を出すと日本で暮らす両親に対してバッシングが起きるなど迷惑をかけることになるのではないかと悩み、相談したとき、「名前も出さないで裁判で勝てると思うな!」と一喝し、私の決意を後押ししてくれました。私は、日本という国は、私の父のように、国民の幸福を第一に、国民が自由に活躍するのを応援してくれるものだと考えていました。それが、いつの間にか私の敵に回ってしまっています。私は、寂しさと失望感を否定できません。

 4 意味・役割の違う二つの国籍

(1)そもそも、なぜスイス国籍を取得したからといって日本国籍を奪われなくてはならないのか、私にはまったく理解できません。

(2)スイス国籍と日本国籍は、私にとっては意味・役割が全く異なります。

 私にとってスイス国籍は、生活のために必要な、たとえるなら運転免許証のようなものです。

 一方、日本国籍は、私の人格に深く結びついています。私がスイス国籍を取得すればいずれスイス国籍もそうなっていくのかも知れませんが、私のルーツがすべて日本にあって日本と結びついているという事実は、永遠に変わることなどありません。スイス国籍を取得したからといって、私のアイデンティティが、ファミコンのカセットを入れ替えるように即座にスイス人に切り替えられるわけがありません。少なくとも私はそんなに器用ではありません。

 海外で暮らしていると、日常生活の中で、在留日本人同士の助け合いもあります。私は商工会議所の日本人会に積極的に参加してもいます。今回、原告にならないかと誘ってくれた野川さんと知り合ったのも、私が学生の頃にアルバイトの紹介をしてくれていた福島県出身の日本人女性(私はスイスのお母さんと呼んでいます。)が招待してくれた音楽コンサートの食事会でのことでした。海外で外国人として暮らしていると、在留邦人同士の助け合いで救われる場面が少なくなく、その都度、日本人、日本国民であることに意味を感じるようになっていきます。少なくとも私の場合は、そうでした。

 日本国籍は、また、私にとっては拠り所でもあります。私はスイスで暮らしていて大変な時に、それでも私には日本がある、日本がいつでも私を受け入れてくれると思うことで、ギリギリまで頑張ってくることができました。日本国籍は、私がどんなにボロボロになっても、帰ってきて良いよと日本が受け入れてくれることを保証してくれる、心の拠り所なのです。

 日本に帰国したとき、パスポートコントロールを日本のパスポートで通り、「ただいま」「お帰りなさい」という感覚を続けられること。その安心感が、異国の地で苦闘しているときに、さらに一歩前へ踏み出す勇気と力を与えてくれるのです。

(3)このように意味・役割の全く異なる日本国籍とスイス国籍について、二者択一でどちらかしか選ばせないという法律は、根本から間違っているとしか私には思えません。

5 アンケート結果と報告書を読んで タブーとなっている国籍の話題

 この陳述書を作る前に、私は、裁判所に証拠として提出された「国籍法11条1項違憲訴訟 海外居住日本人の国籍に関する報告書」(甲124の1号証)とその「添付集計表 外国籍取得予定者」(甲124号証の3)を読みました。居住国の国籍を取得することで「生活の安全と保証が約束される」という言葉(​No.377の方の回答)は、日本で日本だけの人生を歩んでいられる方には想像できないくらい重い言葉だと私には感じられます。日本では空気のように当たり前のことなのですが、大勢の日本国民が、日本国籍を失いたくないという理由で、現在の生活の不便や将来への不安を解消してくれるはずの外国籍取得を躊躇し、苦しい現状を堪え忍んでいます。このことに、裁判官の方々をはじめ、国の担当者、そして国籍法11条1項とは関係のない人たちにも、気づいてほしい、理解してほしい、受け止めてほしいと思います。

 複数国籍の問題は、日本が複数国籍を認めていないと広く受け止められている現状では、直面した一人ひとりの日本国民にとって、とても切実で、センシティブな問題です。話題にしにくく、私自身、知人たちとこのテーマで話をしたことはあまりありません。

 こんなことがありました。バス通勤でたまに会う友人の息子、20代半ばくらいでしょうか、が、大手銀行で働いています。お父様がアメリカ人、お母さんが日本人だったと記憶しています。顔はいわゆるハーフ顔でハンサムです。ある時帰り道の市電の中で乗り合わせたことがあり、国籍についての質問をしました。私が「君も複数の国籍を保持したままか」と質問すると、彼は一瞬ドキッとした顔をしました。秘密警察に尋問され、検挙されるのではないか、と私にはそういうおそれ慄く顔のように映りました。

 ですが次の瞬間、彼は、私は敵ではなく味方であるということを思い出したようで、照れ臭そうに、というか居心地悪さげに、「はい」と答えてくれました。

 チューリッヒの古い友人に、昨年、チャットで久しぶりに挨拶したのち、同様の質問をしましたが、返事がワンテンポ遅れて、「うんパスポート2つ持ってる」と答えてくれました。

 2例とも、まさかお前、チクったりポロっとどこかで言いふらすなんてことはないだろうな、というような、デリケートなものを他人に触られるような、疑う雰囲気があったようにも記憶しています。

 上の報告書やアンケートの回答には、その本音の部分が正直に綴られていました。

 私は、アンケート結果とその報告書を読んで、大勢の人たちが、人それぞれの理由で、世界各地で苦闘していることを知り、ほんとうに人それぞれの物語があるということに、あらためて心を動かされました。私などよりもっと切実な思いで現地国籍を必要としている人がいるのだと痛感させられました。ある方は、アメリカの弁護士資格をとったのだが、「国籍がないと仕事に制限がある」と回答されています(No.228)。外国で弁護士資格を取得するというのは、私の経験からすると、びっくりするようなすごいことです。回答された方は私にとっては赤の他人ですが、海外で苦労している同胞が、何千、何万キロも離れた地で、毎日戦っている。応援したい、もっと活躍してほしい、日本で暮らす人たちにも、赤の他人だけど、応援してほしいと、強く思います。

 そして、今回の訴訟に原告として加わったこと、陳述し、法廷での尋問に応えることの責任の重さを、ひしひしと感じています。

第4 訴訟要件について 

 国は、私には訴訟の原告になる資格がないと主張しています。理由は、私がまだスイス国籍を取得していないし日本国籍を失っていないから、ということのようです。

 しかし、前にお話したとおり、今、私は申請すればすぐにでもスイス国籍を取得できる資格を満たしています。

 具体的に説明すると、私がスイス国籍を取得するには、スイス連邦国籍法(甲59条の4の1、甲59条の4の2)の、

 9条1項a「スイスの永住資格を有していること」、

 同項b「少なくとも10年以上スイスに居住しており、そのうち3年間が国籍取得申請の前5年以内に含まれること」

をまず満たす必要がありますが、私は2001年からスイスに居住し、永住資格(Cパーミット)を取得していますから、この条件はクリアしています。

 これに加えて、

 ①スイス社会によく統合されていること、(スイス連邦国籍法第11条a)、

 ②スイスの生活様式に慣れていること。(同条b)、

 ③スイスの内外社会に危険を生じさせないこと。(同条c)

も求められます。

 このうち①の「よく統合されている」かどうかは、

 「公共の秩序と安全への尊重を示していること」(同法第12条1項a)、

 「連邦憲法が重要なものとする価値を尊重していること」(同項b)、

 「日常生活の読み書きの場面で、公用語の一つでコミュニケーションできること」(同項c)、

 「経済生活に参加していること、もしくは教育をうけていること」(同項d)、

 「配偶者、登録されたパートナー、あるいは保護責任を負う未成年の子の統合を、促進し支援していること」(同項e)

などによって判断されます。

 その判断は、私の居住地であるジュネーブ州の場合、書類審査、つまり(a)民生局の履歴証明、(b)写真、 (c)税務署証明、(d)移民局からの犯罪歴証明、(e)中央法務局の犯罪歴証明、(f)スイスの公用語能力証明、そして(g)スイスの歴史、地理、憲法および州法の知識試験結果により、行われます。

 私は、スイス企業で管理職として働き、スイスの公用語の一つであるフランス語を使いこなし、スイスの生活様式にも慣れています。スイスの内外社会に危険を生じさせるおそれがある存在でもありません。

 このように、私がスイス国籍取得を申請して断られる要素はありません。

 私がまだ日本国籍を失っていないから訴訟をする資格がないという国の主張については、国籍法11条1項のために私を含む大勢の日本国民が今まさに苦しめられている現実を直視してもらえれば、そのような主張はありえないことだとわかってもらえることと思います。

おわりに

 昨年12月、来日したローマ教皇のスピーチに、次のような一節があったそうです。

 「自分たちに聞いてみよう。「私にとって、最悪な貧困とは何か?」 もし、私たちが正直であるならば、わかるはずだ。最悪な貧困とは孤独であり、愛されていないという感覚であると。この精神的貧困に立ち向かうのは、私たちに求められる責務である。そして、そこに、若い人が果たすべき役割がある。私たちの選択肢、優先順位についての考え方を変えていく必要があるからだ。」

 時代に合わない法律があれば、私たちはその法律や、法律が目的とする選択肢、優先順位についての考え方を変えていく必要があります。そうしないと、国民の不幸は永続し、深まり、被害者を増やしていくだけです。

 国籍法11条1項は、明治時代、1899年の法律がそのまま残ったものだそうです。1899年と2020年の現在とでは、社会の状況が全く違います。今や海外で暮らす日本国民だけでなく、日本で暮らす日本国民にも、結婚や出産などの人生の重要な出来事に、渉外的要素、日本以外の国籍要素が自然に入り込む時代です。私がまさにそうでした。こんな時代に、もはや国籍法11条1項の正当性はなく、直ちに廃止されるべきだと思います。

 「日本人」という漢字3文字は、私にとってものすごく大事な意味、価値がある3文字です。私は、生まれた時から日本人であって、日本人として当たり前のように生きてきました。家族もご先祖様も日本人でしたし、子孫にも日本人であってほしいと願っています。それができなければ、私は間違いなく不幸になります。私の身勝手で不幸になったというのではなく、時代遅れの法律によって不幸にさせられてしまいます。

 裁判官には、ぜひそれを止めて、私が不幸にならないよう、判決していただきたいのです。

 私は、今回の訴訟の原告として、ローマ教皇のスピーチから引用した上記箇所の最後の一文を、裁判所に、そして国に伝えて、この陳述を終わります。ありがとうございました。

以上